【コラム】映画館で映画を観るということ - 観客との信頼関係について






映画館で映画を観ること

スクリーンに映し出された映画は、特にそれが優れた映画であれば、どんなに大きく質の良いテレビで鑑賞しても感じられないような独特の力を持ちます。闇の中にただ映画の世界だけが映し出され、そこに没入していけるという幸福。街角で劇場の扉をくぐれば、すぐそこに見たこともないような非日常が存在するのです。そして、それが鑑賞後の私たちの日常の色彩を変えてくれさえするのです。

映画の内容以前に、映画館という空間・装置自体がこうした力を持っています。「数十人・数百人の赤の他人と真っ暗な部屋に閉じこもる」というのは考えてみればかなり異常なことで、映画館以外ではあまり考えられません。でも、この「あくまで(他人と同居する)公共空間である」ということが重要なのです。

映画館で座席に腰掛けているとき、私たちの身体はある程度物理的に緊張しています。隣にはみ出さないように、大きな音を立てないように、前の座席を蹴らないように。何時間も座っていればお尻も痛くなりますし、座り直す時などはなおのこと、周囲に気を遣います。言ってみれば、公共性に制限されることで、身体は自由でない状況にあるのです。

身体がそうであるからこそ、私たちの五感は研ぎ澄まされます。魅力ある映画であれば、いつしか私たちは身体を離れ、魂だけが映画世界の中に潜り込んでいくような体験をすることができるのです。映画館に限らず、劇場という空間にはこうした性質があります。


賭けとしての、映画館での映画鑑賞

映画館で映画を観るというのは、しかし、この上もなく貴い体験であるのと同時に、ある種の賭けでもあります。つまり、自分でコントロールできない外的要因によって鑑賞が妨げられるリスクが常にあるのです。

近くのカップルがイチャイチャと囁きあっているかもしれません。後ろの席のジジイが、感想をすぐ口にしてくっちゃべるタイプのアホかもしれません。前の席のババアが、「私はこのユーモアを理解しているわよ」とばかりにけたたましく笑い声を発する愚か者かもしれません。向こうの席のおねーちゃんが花粉症でくしゃみがとまらなくなるかもしれないし、隣のデブが強烈なワキガの持ち主かもしれません。殺意が沸くケースと気の毒なケースとありますが、邪魔なことには間違いありません。

そしてもうひとつ、映画館の不手際によるトラブルというのがあります。これは考えようによってはより深刻です。周りに迷惑な者がいるというのは単純に不運な事故のようなものですし、また公共空間だからこそ起こることです。そして前述のように、劇場が公共空間であるがゆえにある意味魔力のような力が生まれるという側面があり、メリットとデメリットは表裏一体なわけです。しかし映画館のトラブルというのはもう、なんというか端的に言うと「金返せ」案件ですよね。


上映トラブルは古今けっこうある

とはいえ、上映の作業をしているスタッフさんたちも人間ですし、人間のやることですからミスはあります。人間の思い通りに機械が動いてくれないことだってあります。「映画鑑賞と上映トラブル」というのは、それこそ昔から切っても切れない関係にあります。

「映画(映画館)が描かれる映画」というのは無数にありますが、やはり上映トラブルが描かれることも多くあります。有名作を挙げると、たとえば『ニュー・シネマ・パラダイス』(1988)では上映トラブルが重要な事件になっていたりします。つい最近でも、『ラ・ラ・ランド』(2016)ではやはり上映トラブルの場面が登場し、それが大切な場面への導線になっていましたね。それほど「よくあること」なわけでしょう。

デジタル上映の時代になったからといって、上映トラブルが解決されているというわけではないようです。パソコンで動画を見ていて、急に映像なり音声なりが止まってしまうことがありますが、ざっくり言えば同じようなことが起こっているわけですね。新しい技術には新しい(しかし変わり映えのしない)トラブルも伴ってくる。ですから、「上映トラブルもまた映画文化の一部」ぐらいに思ってでんと構えているほうが、精神衛生上はよさそうです。

対応は映画館によって・場合によって異なりますが、こうしたトラブルの場合には返金がなされたり、次回の無料鑑賞券が配られることもあります。


『ケンとカズ』凱旋上映で起こったこと

しかし、先日新宿ピカデリーでちょっと変わったタイプの上映トラブルに見舞われてしまい、その後の経緯も含めてなんだかやるせないような気持ちになってしまいました。実は突然こんな記事を書いているのは、この出来事がきっかけなのですね。

『ケンとカズ』という映画があります。ほとんど自主制作レベルの規模で作られた作品のようで、小路紘史監督も、主演のカトウシンスケさん・毎熊克哉さんも公開時点ではほぼ無名といっていい存在。でもこれが見過ごせない大変優れた作品だということで、一部映画ファンの話題にのぼっていました。東京国際映画祭でも上映され、高崎映画祭などで賞を獲得していくにつれてじわじわと知名度が上がっていきました。

私も是非とも劇場鑑賞したいと思っていたのですが、やや乗り遅れてしまっており、気づいたときには東京近くでの上映はゼロ。どうしたものかと思っていたところで、新宿ピカデリーにて「一夜限りの凱旋上映」が行われるという情報がありました。しかも500名超を収容する「スクリーン1」。舞台挨拶もあるとのことで、これは見逃せないとチケットを取り、平日夜の新宿に向かいました。

席についてみると、客席はほぼ満席。なかなかの壮観でした。関係者の知人などの方、リピーターの方、私のような「ようやく観られる」という人間が入り混じっていたと思いますが、それぞれの異なった種類のワクワク感が入り混じって、ふつうの映画の上映前とは明らかに異なる雰囲気でした。そんな雰囲気を感じられるのも「公共の空間」だからこその良さです。

上映開始。期待通り、硬質でいて繊細な柔らかさがあり、だからこそヒリヒリする痛みが響きます。どの場面にも惹きつけられる優れたノワールでした。淡々とみなぎる感じの作劇、役者さんたちのシンプルで強烈な顔つき、音楽や小道具に至るまで丁寧に大切に作られた映画です。話が進むにつれ、目の前で起こっていることと同時に「どうやって終わるのか」が気になって仕方なくなる映画。そんな映画はつまり、とても素晴らしい映画ということです。

ところが、物語の最終盤に差し掛かったところで妙な音が混ざり始めます。この映画の今までを考えると、これが演出とは到底考えられません。明らかにトラブルです。周囲の空気がざわつき始めるのがわかります。スクリーンには最後の最後、ほんとうに大切な場面。でももはや、セリフは耳に入ってきません。雑音の方が気になってしまいます。

「毎熊さんがこっちに立って……」と聞こえてきます。珍しい苗字だからよく覚えていました。今目の前のスクリーンで凄まじい熱演を見せている、カズ役の俳優さんの名前です。それでわかりました。つまり、舞台裏ではこれから行われる舞台挨拶の準備・打ち合わせがなされていて、そのマイクが何の手違いかONになってしまっているわけです。ちょっと信じられない凡ミスです。早く気づいてくれ、と祈るような思いになります。

近くに座っていた女性が、スマホを取り出してなにやら操作し始めるのがわかります。上映中のスマホ操作がご法度ということぐらい、もちろん承知の上でしょう。おそらく彼女はスタッフか出演者の知り合いで、この事態を一刻も早く伝えようとしているのです。こんなタイミングでメッセージに即気づいてもらえる確率は低いと知りながら、それでも伝えようと努力せざるをえない。

結局、しばらく雑音が混ざった後でそれはおさまりました。誰かが気づいて対処したのでしょう。でも映画はもう終わろうとしていますし、ざわついた心を鎮めて再度没入するための時間は残されていませんでした。カズがなんとも言い難く複雑な、とても印象的な表情をしています。それだけを覚えています。そしてエンド・ロール。


トラブルのあとで

映画の出来に加えて、上映会の性質を考えても、エンドロールとともに万雷の拍手が起こっておかしくない状況でした。でもそれは起こりません。それよりも、今起こったことに対して整理をつけようという気持ちの人が多かったのかもしれません。私はそういう気持ちでした。怒りというわけでもなく、ただただ混乱していました。

ほどなく、舞台挨拶が始まります。ユーモアにあふれた、割と和気藹々とした空気。今起こったことについては触れられません。監督やキャストの皆さんはたぶん、この時点ではトラブルについて認識していなかったのでしょう。あれほど丁寧な映画を作る方々にとってこのトラブルは致命的なものでしょうし、知っていればそれについての言及がないはずはありません。このように徹頭徹尾明るい空気にもならないでしょう。

舞台挨拶の内容からも、監督・キャストの皆さんがどれほどの熱意をもってこの映画を作り、そして感無量の思いで今日の凱旋上映を迎えたかが伝わってきました。だからこそ、後でトラブルについて知ったらどれほど落ち込むことだろうかと考えてしまいます。

ところが驚いたことに、舞台挨拶の最後になって、付け加えるかのように司会の女性が突然トラブルに言及します。「あっ、忘れるところでした」という調子で、軽い感じのお詫び。これにはびっくりしましたし、またここで初めて怒りのような気持ちが湧いてきました。

べつに彼女が悪いわけではありません(司会自体のヘタクソさはともかくとして)。彼女がそれを言うということは、そのように指示した者がいたということでしょう。その人物は、このトラブルをその程度の出来事と考えていたのでしょうか? べつに土下座をして謝れとかいうことではありません。そうではなく、コトの重大さに対する認識の甘さに腹が立ったのです。


コトはどれだけ重大だったか

映画館で映画を観るとき、人の心はこのうえなく無防備になっています。少なくとも私はそうです。目の前で起こるすべてのことを感じ、それに対し可能な限り想像力を働かせようという心持ちでいます。だからこそ、このようなトラブルが起これば、それに対して感性が流れ出してしまいます。このトラブルに対してスタッフ・キャストがなにを思うか、ということを一瞬のうちに考えてしまったのは、映画鑑賞モード、つまり人に対する全力共感モードになっていたからです。

このような集中力の散逸がクライマックスで起こってしまったというのは、それこそ『ケンとカズ』の物語そのものに匹敵するほどの悲劇です。100本の鑑賞に一度あるかないかの、一年に一度あるかないかの強烈で得難い映画体験になる予感があったのに、最後の最後にそれがどこかに飛んで行ってしまいました。それが残念でなりません。記憶を消してもう一度鑑賞し直したい、と真剣に思います。

ちょっとしたトラブルでも、無防備な心で映画に向き合っている観客には大変なダメージになってしまうということ。そして、その観客はもしかすると人生観に影響を受けるほどの大変な体験をしつつあるのかもしれない(トラブルがそれを台無しにしてしまいかねない)ということ。人間というのはつまらないミスをするものですし、それ自体を責めたいとは思いません。でも上映に携わる方には、せめてこの事実を強く認識してほしいと改めて思います。


映画(館)と観客の信頼関係

「ダメな映画」とはどんなものでしょうか。他の記事でもしばしば述べていますが、私はダメな映画とは「観客との信頼関係をないがしろにしている映画」と考えます。全力を傾けた演出が空回りしていても、懸命に組み立てた筋書きが複雑すぎて観客に伝わらなくても、失敗作となるかもしれませんがそれらは「ダメな映画」ではありません。でも、スクリーンで起こるすべてのことに無防備な感性を向けている観客を裏切るような映画はダメです。乱雑なディテールにより不必要で意図のない混乱を平気で観客の心に起こしながら「でもVFXすごいでしょ?」「泣ける話でしょ?」で押し切ろうとする、たとえばそういう映画が「ダメな映画」です。

『ケンとカズ』はこうした映画とは対極に位置する作品です。心を開いて感じようとする観客の信頼に、全力で応えようとしています。予算に余裕もなかったであろうこと、そして多くの人に観てもらえるという保証などひとつもなかっただろうこと、その中でこれほど真摯に作品を作ったということについて、監督・スタッフや俳優の皆さんに尊敬の念を覚えるほどです。

だからこそ、残念でなりません。映画そのものが観客との信頼関係を大切に育てようとしているのに、それ以外の部分から水を差されるということには失望を禁じえません。観客としては、映画そのもの以外に映画館や配給・上映に携わる方とも信頼関係を持っていたいと願います。もちろんそのためには、観客も鑑賞マナーなど最低限のことに気をつけねばなりません。

今回、怒りのような気持ちはすぐに消えてしまいました。監督やキャストの皆さんが、イベント後にtwitterでトラブルについてのお詫びをつぶやいているのを目にしたためです。トラブルについてまったく責任がなかったであろう彼らがそのように落ち込んでいるのを見ると、やるせないような気持ちが先に立ってしまいます。また、配給会社(太秦)の方からもお詫びのコメントが出されていました。

繰り返しますが『ケンとカズ』は素晴らしい映画でした。小路紘史監督やそのスタッフの皆さん、カトウシンスケさん・毎熊克哉さんをはじめとするキャストの皆さんが携わる映画に対しては、これからもまず信頼を寄せ、無防備な心で鑑賞したいと思います。というかチャンスがあれば、まずはこの映画をもう一度スクリーンで鑑賞し直したいと思っています。

映画を通じた作り手と観客の幸福な関係が、映画館という魔法のような空間の中でこれからも続いていくことを、世界の彩りが一変するような体験を多くの方が(私自身も含め)していくことを、ひとりの映画ファンとして願うばかりです。

(『ケンとカズ』という映画そのものについては、早いうちに別途記事にしたいと思います)

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