ある意味バディ・ムービー(漫才) - セトウツミ(2016)レビューと解説(ネタバレあり)





未鑑賞の方は、ネタバレなしの作品紹介記事をご覧ください。

何を解説するのか?

漫才とかコントを見て「何が面白かったのか」を説明するほど野暮な話はありません。この映画もわりとそれに近いところがあって、ひとつひとつの会話のおかしみについていちいち取り上げて書くというのは、いかにもアホらしいことです。なんの意味もない会話についての解説文というのは、もうなんの意味もない会話以上に真に意味がないものでしょう。

この映画に限って言えば、この項で書くべきことがぜんぜん思いつきません。いずれにしても、端的に言って私はこの映画が好きです。ある映画について「わざわざ映画館で観る必要あるか?」と思うことはよくありますが、もう『セトウツミ』についてはこの極小スケールの作品を「あえて映画館で観るのも悪くない」と逆に思えてきます。そういうフシのある映画です。


この笑いの感じはどこらへんにルーツがあるか

お笑い史の専門家の方とかに(そういう方がおられるのか知りませんが)真剣に考えてみて欲しいものですが、劇中での瀬戸(菅田将暉)と内海(池松壮亮)の会話のおかしみのルーツは、どのあたりに求められるでしょうか。多くの人が感じられたことかもしれませんが、現在人気がある中堅〜若手の大阪芸人の笑いのエッセンスを多く感じることができます。

たとえば、日常のしょうもない悩み事に端を発してエッジの効いた妄想が膨らんでいくという感じは、「ブラックマヨネーズ」の漫才を思わせます。妄想が緩く迷走・やがて暴走していく感じについては「チュートリアル」の雰囲気もあります。とんでもない屁理屈で相手を追い詰めていくような部分も少しありますが、ここにはちょっとだけ「和牛」みたいなところがありますね。また、そもそもの舞台設定としての「10代の愛すべきバカさ」というあたりには、やや「笑い飯」的な匂いもします。

真面目な話、こういう笑いって「間の取り方」がめちゃくちゃに重要です。面白さのパンチで観客を殴りつけるような感じというより、面白さの種を観客の中に植え付けて素早く膨らませて爆発させるような笑いだからです。つまり、種が育つための適切な時間という「間」が必要なわけですね。

この点、池松・菅田のコンビは素晴らしい「間」の取り方でした。やはり役者さんですね。お笑い畑の方が俳優として素晴らしい演技を見せることが多くありますが、これは普段からコントなどで演技をする機会があり、特にそこでの「間」の取り方に熟達しているためではないかと思います。『セトウツミ』では、逆もまた真なりという感じがありました。

解説してもうてるやん。


もうこれはバディ・ムービーに分類してよいのでは

「バディ・ムービー」というと一般的には、正反対の性質の二人がコンビ(相棒)関係になって共通の目的に向かう、というような作品を指しますよね。『ダイ・ハード3』(1995)のブルース・ウィリスとサミュエル・L・ジャクソンとか。最近当サイトで扱った中では、一味違うバディ・ムービー『フレンチ・ラン』(2016)がありました。

いずれにしてもこういうのは基本的にアクション映画で、二人の組み合わせはたとえば刑事と詐欺師とかで、その目的はだいたいテロ計画を阻止するとかそういうことになってきます。とにかくスケールがでかいわけです。

翻って『セトウツミ』。きわめてスケールというか、半径の小さい作品です。世界の範囲がこれほど小さい映画をほかに知りません。テロどころか暴力の影も出てきません。日常の中の日常の中の日常。しかしこれ、ある意味バディ・ムービーです。典型的なバディ・ムービーと「正反対だから逆によく似ている」みたいな感じです。

たとえば、コンビの二人の性質は正反対です。条件を満たしてますね。そして共通の目的がある。「放課後の暇な時間をつぶす」。これも条件を満たしてます。べつにテロを阻止しなくていいのです。そんなもんしょっちゅう起こってたまるかという気がします。そして「なんかいいな、この二人の関係」。ぴったりです。これがバディ・ムービーでなくて何なのでしょうか?

このように、今私は「この映画に対して新たな視点を提供した」風で満足げな気分になりましたが、だからといってどうということもないことに気づきました。やめましょう。


コミュニケーションなんて演技力やん

劇中に出てくるセリフの90%は実に意味のないナンセンスな感じのものですが、たまに「おっ」というセリフが出てきます。真理をついているというか。しかもそれが、「ただ思ったことを言っただけ」という感じに出てくる。これもなんとなく、高校生のとりとめのない会話としてリアルな感じがしますね。

特に「コミュニケーションなんて演技力やん」というのはかなり「おっ」というセリフでした。確かにその通りです。内海と瀬戸も、実に仲のいい二人という感じでつるんでいますが、そのやりとりには演技が入っています。これは「何かを隠している」とか「自分をさらけ出していない」ということではありません。むしろ逆で、自分のことをわかってもらうためにこそ演技が必要になってくるのですね。社会的なペルソナというか。

特に漫才風のやりとりになると、これはもう二人とも演技というか、セルフキャラ付け・作った感情の出し方みたいなものが目立ってきます。もちろんいい意味で。特に内海のそれは面白い。クールなインテリキャラが、あくまでそれを崩さず軽妙におもろい発言をする(その演技によって内面をさらけ出す)という過程がよく表れています。瀬戸にツッコミを入れているときの内海は、「どこかしら芝居がかかっていて、同時に普段より親しみやすい」感じがしますよね。これがコミュニケーションとしての演技力です。

つまり、ゆるくてシンプルな映画なのですが、池松壮亮と菅田将暉はけっこう難しい・ややこしいことをやっているのですね。「コミュニケーションとしての演技力を発揮する、という演技」。それを(意識してか無意識的にか)さらっと自然な調子でできているあたりが、この二人の実力でしょう。


蛇足(その他の下世話な話)

高校生に戻って、友達と公園とか川っぺりでダベりながら、テイクアウトしてきたマクドナルドを食べたいと思いませんか。冒頭そんな場面だったのですが、妙に美味しそうに見えてしまいました。それで鑑賞後思わずマクドナルドを食べてしまいましたが、さほど美味しくなく。やはりシチュエーションが大切なのだな、そしてあんな時間は二度とやって来ないのだな、と少しだけしみじみしてしまいました。

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