イタさに引きずり込まれる罠映画 - 何者(2016)レビューと解説(ネタバレあり)




未鑑賞の方は、ネタバレなしの作品紹介記事をご覧ください。

観る人によって印象のまったく変わる映画

『何者』という映画はおそらく、世代・属性によって印象が著しく変わる作品でしょう。たとえば、かつて彼らと同じ就職戦線をくぐり抜けてきた人々。その中にも、我が事のように共感できる人もいれば、「自分はあんな風じゃなかった」という人もいるでしょう。早々に内定を獲得してさほど苦労を感じなかった人もいれば、苦労はしたけれど人と共同戦線を張るようなことはしなかった、という人もいるかもしれません。そもそもバブル期以前に就職した世代の方などには、あのリアリティに実感を抱けということ自体難しいかもしれません。

しかし、少なくとも1970年代以降に生まれ、大学を卒業して就職した経験のある方にとっては、大なり小なり自分に当てはめて考えられる部分があるでしょう。実は私も、大学は卒業しましたが、一般的な意味での(つまり、この映画に描かれるような)就職活動をしたことがありません。企業に勤めたことはありますが、エントリーシートを書いたこともありませんし、内定の電話をドキドキしながら待った経験もありません。

ただ、そのような典型的でない経験をした者に対しても、受け皿はきちんと用意されています。私の場合は、斜に構えて就職活動をしない(と宣言する)隆良(岡田将生)、それから拓人の元相棒。このあたりになんとなくシンパシーを感じながら鑑賞していました。

この映画の問題は、このように「どこかしらにシンパシーを感じてしまう」ということなのです。だからグサグサやられるのです。


意味のある会話がなかなか出てこない

『何者』の監督は三浦大輔。思いっきり劇団畑出身の三浦監督は、セリフへの意味の持たせ方において、なかなか他の映画監督には見られない独特の緩急のつけ方を持っているように思えます。もちろんそれは、作品ごとに異なっています。

映画でも舞台演劇でも、セリフの扱い方というのは作品によって・脚本家によって・演出家によって様々です。たとえば、セリフは必要最小限にとどめて無言の表現を濃密に描き、それによってセリフの強度を高めるというケースがあります。2016年の邦画で例を挙げれば、『淵に立つ』は印象的でした。逆に、怒涛のごとくセリフが繰り出され、観客はべつにその一つずつを噛み締める必要はなく、そのセリフの波・過多な情報量自体を表現の一手段とするという極端なケースもあります。『シン・ゴジラ』がそうでしたね。

『何者』においては、セリフのテンポや頻度自体は普通です。ただ特徴的なのは、意味のある会話が全然出てこないということです。いや、情報としての意味はあるのです。しかし、深みのある、あるいは鋭さのある、聞く人の心に届くようなセリフが序盤からなかなか出てこないのです。会話のほぼ全てが「うん、まあそう言うよね」というものです。

もちろんこれは、意図的に行われていることです。強度ある本音の言葉は、決してリアルな世界では語られません。しかしそれらはTwitterで(秘密のサブアカウントで)つぶやかれる……というわけでもありません。では、うわっ滑りの建前ではなく、暗い感情や包み隠されない傲慢さの渦巻くTwitterのつぶやきでもなく、それらに回収されることなく溢れ出てくる言葉というのは何なのか。終盤にかけて登場するこうした言葉たちのためにも、それまでの会話が徹底的に薄っぺらい必要があったのでしょう。


「それも見える、これも見える」の罠

薄っぺらい会話群を中心に回る、登場人物たちの言動のあれこれ。全部透けて見えます。一定程度社会経験を積んでいれば、いやそれどころか、高校生程度の大人になっていればわかるレベルです。「こいつはこんな発言をしているけど、裏ではこう思っているな」ということの、めくるめく積み重ねが続いていきます。時折誰かに対して陰口を叩く場面が出てきたりしますが、これらの会話も100%の本音には程遠いですし、また薄っぺらく、裏側が透けて見えます。「こういう悪口を言える自分は人を見抜ける人間だぜ」みたいに。実にリアルかつわかりやすい。

このあたりを観ていると、まるで映画自体が薄っぺらであるような錯覚を覚える向きもあるかもしれません。でもそれが危険です。「なるほど、こういうリアルでイタい青春群像ね、わかったわかった」という調子でいるうちに、観る者は自らの内なる薄っぺらさを破られ侵入され、「お前は一体何者なんだ」という問いの対象として引っ張り出されていきます。

誰にでも薄っぺらい部分があります。自覚していて後ろめたく思いながら、しかし解決することができずに見て見ぬ振りをしている、自分自身の泣き所があります。多彩なキャラクターの多様な薄っぺらさをわかりやすく見せることで、なるべく多くの観客の薄っぺらさを密かにまさぐっていこう、という罠が、この映画前半のつるっとした物語展開の中には仕掛けられているのです。

これは実に綿密に、いやらしく行われています(褒め言葉です)。凄く凄く細かいところから例を挙げましょう。たとえば理香(二階堂ふみ)のTwitter上(でしたっけ、メールでしたっけ)、ローマ字の名前表記が「Rica」となっているあたり。ありますね、こういう無意味に「K」を「C」にしたり、「R」を「L」にしたりという、格好のついていない格好つけ。「言語学的にこっちの発音のほうが近いから」みたいなちゃんとした理由は絶対にないのです。きっと彼女、公的書類であるパスポートにはちゃんと「Rika」と書いてありますよ。ああ、ムズムズします、謎の自意識・謎アピール。

こういう細かな細かな要素が嫌というほど提示され、どれか一つは刺さるように作られているのです。「いるいる、こういう奴。イタいよね」と思っていると、その次には自分に当てはまるようなイタさが提示されるのです。私の場合、もし10数年前の自分がこれを鑑賞していたら、隆良のイタさなどは恥ずかしくて見ていられなかっただろうと思います。

そして終盤。唐突に、拓人(佐藤健)たちのドラマが繰り広げられる舞台、そしてそれを観ている観客たちが映し出されます。わかりやすいといえばわかりやすい、演劇的にいうところの「異化効果」です。観客に「あなたたちが見ていたのはあなた達自身の姿ですよ」というわけですね。


強度あるセリフはどこにあったか?

薄っぺらい言動が繰り返される物語の中で、最初に強い言葉を口にしたのは、たぶんサワ先輩(山田孝之)だっただろうと思います。彼は明らかに他の登場人物たちよりも大人で、適切な距離をとりながら、それでいてむやみと斜に構えることもありません。拓人のようなポーズとしての分析ではなく、きちんと思考をしています。

拓人は、かつての相棒と隆良を同じカテゴリに押し込めて、まとめて腐しています。しかしサワ先輩は「ぜんぜん違うよ」。それを的外れだと喝破します。「もっと想像力ある奴だと思ってた」とはきつい一言。つまり、拓人は自分の後ろめたさや嫉妬心を覆い隠すために、そこに繋がる存在を一緒くたにして否定しているのです。それは自分を守るためだけの非生産的な行為で、拓人は自分を客観視もできず、想像力をもって外の世界を観察し柔軟に学ぶこともできていない。サワ先輩はそれを見抜き、一言で拓人の急所を突きます。

注目すべきは、終盤の理香との会話の中で、拓人のTwitterの裏アカウントの存在が明らかになったところ。クールな表情の裏側で、彼が今までどれだけ周囲の人間をケチョンケチョンに貶してきたかということが明らかになります。しかし、彼は密かに想いを寄せていた瑞月(有村架純)を貶すことは書いていません。そしてもうひとつ、耳の痛いことを言われたサワ先輩のことも、悪く書いてはいなかったはずです。

それは、瑞月に対する恋心は心からのものだから。そして、サワ先輩の言葉が拓人の本心に届いていたからです。結局、Twitterの裏アカウントには、拓人の本音などというものは少しも表現されていなかったのです。「瑞月のことが好きだ、自分の想いを受け入れてほしい」「夢を追うかつての相棒が羨ましい、同じようにできない自分が悔しい」。


「何者」の本音はどのように溢れたか

「何者」というキーワードが直接的に描かれたのは、拓人のTwitter裏アカウントのハンドルネームとしてでした。虚勢を張ったり冷静なふりをしたりしているものの、自分が何者なのかがちっともわからない、その表れといえる、痛々しいハンドルネームです。そこに痛みを感じた理香もまた、抱え込んでいた苦しみを吐露します。

「あなたは何者か」という問いはつまり「あなたの本音はどこにあるか」と置き換えることができます。しかし、人は誰しも本音を隠し、自分の心を守るために殻を纏います。学生時代の小さな世界でもそれは同じです。そして、そこから社会に出て行く通過儀礼としての就職活動において、若者たちは迷います。自分はこれから何になりたいのか。もう一度本音でぶつかるべきなのか、より硬い殻をまとうべきなのか。分厚くなりすぎた殻の重みに押し潰されそうな者、いつの間にか殻の中がすっからかんになっていることに気づき思い悩む者、逆に本音ばかりで身動きが取れなくなる者、様々です。

クールぶって「就職活動の面接はTwitterの140字と同じ」と説いていた拓人は、最後の場面、140字には、あるいは1分には到底おさまりきらない自分の本音を語り始めます。それは長い長い物語で、端から見ればとりとめのない話です。結局時間が足りるはずもなく、タイムオーバーとなってしまいます。

この場面で感心したのは、面接官によって拓人の話が強制終了された「のではない」ということです。拓人は自ら「1分では語れません」と話をやめたのです。でもそこには、諦めのような雰囲気はありません。彼は「今の自分にできるのはここまで」ということをしっかり自覚し、できる限りのことをやり切ったのです。今までには見られなかった態度ですし、彼は明らかに成長しています。

そもそもこの場面、拓人は恐らく1分を優に超える時間に渡って話を続けています。それでも面接官はそれを打ち切りませんでした。彼の話にどこか人を惹きつける部分があり、もう少し聞きたいと思ったのかもしれません。尻切れとんぼに終わった面接ですが、意外とこういうケースが良い結果を生むものです。描かれることはありませんが、彼はきっとあの面接に合格したのではないか、という予感を持った方は多いのではないでしょうか。

「何者かでありたいと願うなら、本音でぶつかれ」。それはそうなのでしょうが、これはずいぶん押し付けがましいフレーズです。世の中には、本音を隠さなければ乗り切れないことが山ほどあります。建前で防御しなければ耐えられない痛みもあります。人は皆、そんなに強くはない。そうしたことをつぶさに描いて、一周回って、それでも「何者かでありたいと願うなら、不完全でも本音でぶつかれ」「きっと誰かがあなたの本音を聞いてくれる」と訴えてくるのがこの『何者』という映画でした。


蛇足(その他の下世話な話)

下世話ネタにできそうな部分、特にありませんでしたね。でも、たとえば1年か2年前のクリスマスなんかには、拓人は「瑞月と光太郎(菅田将暉)は今ごろ……」とか思って悶々としていたのかな、とか思うと笑えてきますね。いや、痛い感じもします。マーケティングに乗せられるクリスマスの馬鹿騒ぎを揶揄するようなことを、Twitterの裏アカウントに書いたりするのでしょう。光太郎は帰ってこない独りの部屋です。辛い。

というような想像の余地がある映画なわけですが、想像の余地にまで痛々しさを仕込んでくるあたりが素晴らしくいやらしいところでした。

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