スピーディーに巻き込まれよ - SCOOP!(2016)レビューと解説(ネタバレあり)






まるで深夜ラジオの「内輪巻き込み力」

物語の舞台そのものが「業界裏事情」的になっている映画というのはけっこうあります。というか、「家族モノ」でなければ全ての映画に何かしらの業界が描かれているといっていいでしょう。警察とか軍隊とか音楽とか。で、『SCOOP!』に描かれているのは写真週刊誌。そこに写真を売り込むカメラマンであり、取材記者であり、そして編集部の人々です。

記者などの取材する側から描かれる映画といえば、いくつも思い浮かびます。近年では『凶悪』(2013)とか、『スポットライト 世紀のスクープ』(2015)とか。しかしこれらは基本的に、大きな事件があって、観客は記者と同じ目線から取材という形でその事件を追っていくというものです。これに対して、『SCOOP!』には特に核となる大きな事件があるわけではありません。「取材する者たち」自体が描かれていくのです。それはパパラッチの都城静(福山雅治)であり、新人記者の行川野火(二階堂ふみ)であり、そして副編集長の横川定子(吉田羊)ら編集部の面々です。

わかりやすい「事件の謎」といったものがない以上、登場人物たちの行動原理を理解するのはやや難しいところです。組織があって、誰に権力があって、誰が従属する者で、誰がその外側にいるのか。誰がエンジンを踏もうとして、誰がブレーキをかけようとしているのか。それはどのような理由によるものなのか。つまり、業界の内部事情みたいなものがより細かく描かれなければ、観客は置き去りになってしまいます。

この映画は、冒頭からスピード感をもってこれらを細かく描き出し、観客を「内輪ノリ」に巻き込んでいきます。その有り様は、よくできた深夜ラジオのノリにちょっと似ています。深夜ラジオというのは、特に人気番組であるほど、その番組ごとの「内輪ノリ」というものをしっかり持っています。非常にハイコンテクスト、つまりその内部でしか通用しないようなギャグとかネタ、文脈みたいなものがあるのです。それを理解して初めて楽しめるわけです。しかしパーソナリティは、毎回それをイチから説明するわけにはいきません。普段着のトークの中に情報を潜ませ、新規のリスナーも自然にその流れに乗れるようにさりげなくサポートしていく。人気番組にはこのような特徴があるように思います。

『SCOOP!』前半では、登場人物の軽妙な掛け合いが同様の役割を果たしています。優れた映画はどれもそうなのですが、『SCOOP!』の特に良い点というのは、それをギュッと凝縮された形でドバッとしかもスムーズに、開始早々提示してくれることです。静と定子の掛け合いなんかがそれです。観客はさも業界事情通のようにニヤリとして「あるある」と頷けるようになります。大根仁監督はこういう「巻き込み力」がずば抜けていると感心します。


染まる男・福山雅治の染まり具合

福山雅治という人は不思議な俳優で、「スーパースター」のくせに「わりとどんな役でもやる」のだが「特に驚きがない」という印象が、個人的にはあります。学者になって「実に面白」がろうとも、そして父になろうとも、「へえ、今度はそんなのやるのか」という感じです。歌手業においても同じです。バラードのラブソングを歌っても、弾けたロック・チューンであっても、コミカルな歌でもなんでも、「へえ、今度はそんな歌なのか」という感じです。

これは貶しているのではありません。むしろ褒めています。つまり、福山雅治という個人に非常に個性的な強い存在感があるので、何にでも頭からどっぷり染まってよく、それで成立するということです。スターすぎて「何の役をやっても同じ」という人もいますが、福山という人にはむしろ、スターすぎるから「何にでもなれる」という部分があるのではないでしょうか。

こうした彼の特性は、『SCOOP!』においては特によく作用していました。というのも、パパラッチというのは言わば覗き屋であり、他人のプライバシーを侵害してはそれを金に換えているわけで、見下されても仕方ないような部分があります。最初からイメージが悪いのです。ですから主人公としての静は、それを正当化するのでもなく、かといって開き直るだけでもなく、絶妙なバランスで親しみを抱かせるような人物でなくてはなりません。「ゲスなのに魅力的」、これは非常に難しい。そこで福山雅治というわけです。

奇しくも深夜ラジオの話に戻りますが、福山はかつて長年「オールナイトニッポン」のパーソナリティを担当していました。私もよく聴いていたのですが、この番組は不思議と男性の人気が高かったように思います。その理由は、誰もが認める二枚目でありながら、ギリギリの下ネタトークをあっけらかんと繰り広げ、くだらない話に大笑いする福山の親しみやすさにありました。

もちろん静と福山本人のキャラクターはかけ離れたものですが、この「ゲスなのに(だからこそ)魅力的」という部分は、本作でもそのまま活きていました。だいたい、福山雅治なわけですから、基本的に映っているだけでカッコいいわけです。そこでこの映画は逆に、最初から存分にゲスさを推していきます。なにしろ冒頭から喘ぎ声です。「ここからしばらくゲスですよ!」という宣言です。ここでは静が金で女を買っているわけですが、仕事の待機時間に車の後部座席でコトを済ませているあたりもしっかりゲスですね。

どうしようもなく女好きで借金も抱えた中年パパラッチ。セクハラ・暴言当たり前、コンプライアンスのコの字もない。仕事内容も「ゲスな態度でゲス連中を撮る」というもの。しかし二枚目で頭も切れ、仕事の腕自体はピカイチ。過去に傷を持っているらしいこともほどよく示唆され、なんとも憎めない、そして「鼻につかない」。こんな設定を背負ってバランスよく立てる俳優はそう多くありません。


染める女・二階堂ふみは染めなかった

二階堂ふみという女優には稀有な存在感があります。どのような作品でスクリーンに映っていても、彼女自身からにじみ出る独特な塗料が画面をどんどん染めていってしまうような特性があります。しかもその塗料には様々な種類があって、彼女はそれを非常な自然体のうちにコントロールしているように見えます。彼女は20代前半の若さで、というか、もう10代の頃からこのような存在感をかもし出しています。

今回の彼女には、あまり今までの役柄にはなかったのではないかという重要な役割がありました。それは、観客の視線に晒されるのではなく、観客の視線に寄り添うということです。読み解かれる存在というよりも、観客とともに読み解いていく存在ということです。この映画の特に前半では、彼女はそのような立場でした。

彼女の演じる野火は(変わった名前ですが原作と同じです)、写真週刊誌を生み出す人々の「内輪の世界」に外から侵入していく唯一の存在です。上述した「内輪への巻き込み」において非常に重要な媒体です。だから本作では、エキセントリックなヤクザの娘(『地獄でなぜ悪い』(2013))とか、いつも退屈し不機嫌な顔をしたよくわからない女の子(『ふきげんな過去』(2016))とか、ましてや赤い金魚(『蜜のあわれ』(2016))であってはいけません。「なんだこの子は」と思わせるのではなく、「この世界はなんだろうね」と観客と囁き合う存在でなくてはなりません。

等身大という言葉は随分紋切り型ですが、彼女の等身大ぶりはこちらをよく刺激してくれるものでした。手段を選ばず有名人のプライベートを暴く静に対する「ドン引き」感。でも裏腹に、そんなゲスさとはなんとワクワクするものなのだろう、と惹かれていく感じ。少し後ろめたさを感じながら週刊誌を手に取る一般読者の心情そのものです。政治家の不倫現場を暴く花火作戦など、ハチャメチャでありながら楽しい場面です。直後に激しいカーチェイス。彼女は「ひどい目にあったけど、ちょっと楽しかったな」と感じたことでしょう。そんなリアルさの何気ない表現が卓抜でした。

「奇妙な性格の役どころ」は上手でも、「奇妙な立場に置かれた普通の人物」となると途端に存在感が希薄になる俳優もいます。しかし彼女は、福山雅治に渡り合うまでの存在感を発揮していました。たぶん、ふだんの役柄で割とだだ漏れになっている「独特の妙な色気」を完全に引っ込めていたのが良かったのではないでしょうか。意識的なことだとしたら本当に素晴らしい。無意識にやっているのだとしても凄いことですが。


99.99パーセントゲスでよかったのに

ここまで、主に俳優にフォーカスしながらこの映画を褒めてきました。ただこれはおおよそ前半についてのことです。この映画は後半になってから、その手触りもスピード感もがらりと変わっていきます。起承転結でいえば「転」のところでしょうか。私はここに、ちょっと「ついて行けなさ」を感じてしまいました。

それは、現場検証に姿を現す連続婦女暴行殺人犯の写真を撮りに行くところです。静は初め、気乗りがしません。しかし定子は、ジャーナリズム精神と、それ以上にかつて(今も?)愛した静という男に輝きを取り戻して欲しいという気持ちが強かったのでしょうが、この取材を強力に推し進めます。対してもう一人の副編集長・馬場(滝藤賢一)は「うちの読者が見たいのは巨乳のグラビアとかラーメン情報だ」、そんなリスクを冒すことはないと抵抗します。

つまりは、編集部内で侃侃諤諤あるわけです。そしてひとしきりヒートアップしたあたりで、ずっと黙っていた下っ端の野火が一言ぶっ込みます(よくあるシチュエーションです)。彼女は言います。「難しいことはよくわかんないけど、この犯人は許せない」。

これは「等身大の存在」の彼女の発言としてはOKです。個人的な正義感。でも、この発言をひとつのガイドのようにして物語が次に進んでいくことには、違和感がありました。なぜなら静も定子も、自分たちのゲスい仕事の言い訳に「正義」を使うようなマネは今までしていなかったからです。大義名分がそれではいけません。誰にも見せない、奥の奥のほうに隠したほんのわずかな矜持のようなものとして「正義感」があって欲しかったと思います。

「女を何人もレイプして殺したクズ野郎が、どんなツラして現場検証に来るのか興味ない? それ見たくない? 意地でも顔撮って晒してやろうぜ。成功すれば部数も爆上げだぜ!」感をもっともっと押し出して欲しかった、と感じます。正義なんか知るか、読みたい奴が金を出すから撮るんだ、という感じを、もっと。動機の99.99パーセントがゲスなままでも観客を引っ張っていける演技を俳優たちはしていたのに(0.01をもっと溜めてから出せたのに)、もったいない、という気がします。


やっちゃうの? 死んじゃうの?

ここでちょっと振り落とされてしまったので、静と野火が「やってしまう」という展開にもついていけませんでした。実際、静に惹かれるようになっていた野火がそういう妄想だか夢を見ているという場面かと思っていたら、そのまま「事後・そして翌朝」になってしまうものだから唖然としました。ええ、やっちゃうのかよ……? しかも急にロバート・キャパの「崩れ落ちる兵士」だとか、なんというか意識高いマトモな話をし始めてしまうし。

いや、静にそのような背景があるのはいいことです。野火がそれに触れるのもいいことです。でも、もうちょっと直接的でないコミュニケーションの中でそれが描かれて欲しかったと思います。前半にはあれだけ滑らかに話が進んでいたのに、後半になって急に車が獣道に入ってしまった感じがします。原作に準じているといえばそうなのでしょうが。

静が最後に死んでしまうのもいいでしょう。でも、あの静の本質が凝縮された「最期のフィルム」に何もかもをもっと凝縮させてほしかった。たとえば、野火が静にとって「最後に愛した女」であることを表現するのに、肉体関係はいらなかったのではないか。あの写真一枚で十分だろう、その重みを持たせて欲しかったと思います。

触れる機会を逸してしまいましたが、脇役たちの存在、特に滝藤賢一演じる馬場とリリー・フランキー演じる(相変わらずの異様な存在感)チャラ源の存在は非常に大きなものでした。静の背負っていたものを別の角度から伝えてくれる二人です。あと30分の余裕があれば、大根監督はこれらをもっと掘り下げてくれたのかな……掘り下げたかっただろう、と残念に感じます。このへんの設定(静のチャラ源に対する「借り」など)は各種出版物でも語られているので、ぜひ。


蛇足(その他の下世話な話)

二人の肉体関係はいらなかったとか散々偉そうに述べておきながら、それはそれ・これはこれです。二階堂ふみの出演作なのに、どこにもあの異常で独特な色気が発揮されないのはもったいない。だからやっぱりOKです。福山雅治ももちろんセクシーですし、「吊り橋効果」のベッドシーン、そこだけ切り取ってみると非常によかったですね。


それから、張り込みをする刑事であれシャッターチャンスを狙うパパラッチであれ、その合間に忙しくかき込むジャンク・フードって妙に美味しそうに見えませんか。今回静はカップ焼きそばを食べていましたが、スープがないぶんカップラーメンより機動力の高い食べ物だから、といった理由があるんでしょうか。私はたまたまお腹を空かせながら鑑賞していたのですが、思わずソースの味が口の中に広がってくるようでした。 

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