悪意の爆弾を抱きしめよ - 悪人(2010)レビューと解説(ネタバレあり)





未鑑賞の方は、ネタバレなしの作品紹介記事をご覧ください。

「悪人」では何が起こったのか?

この映画を鑑賞すれば、多くの人が何か重苦しいものを心に抱えることになるでしょう。しかし、他人に「どのような映画なのか」を説明しようとすると難儀するのではないでしょうか。というのも、この映画で表面的に起こった出来事は、ごくシンプルに説明できてしまうからです。せいぜい「出会い系サイトを通じた人間関係のもつれから若い女性が殺される。犯人の男は別の女と逃げるが追い詰められ逮捕された」といったところです。それにもかかわらず、なぜこの物語はこれほど心に迫ってくるのでしょうか。

喜ばしいことではありませんが、現代社会では「よくありそうな殺人事件」です。劇中でも描写されるように、メディアは通り一遍の報道をします。「出会い系サイトの闇」だとか、使い古されたフレーズも浮かんできます。この手のニュースはスキャンダラスに消費され、数日もすれば人々の話題に上ることもなくなってしまうことでしょう。

この映画は、そうした事件の中で「ほんとうに起こっていたことは何なのか」を描いています。「心の闇」などという決まり文句では説明のつかない犯人の背景から、被害者の親にはどのような悲しみと怒りがあったのか、ということまで。


「悪人」を観ているとなぜこんなに居心地が悪いのか?

筆者は「悪人」の特に序盤から中盤までを鑑賞している間、非常な居心地の悪さを感じていました。鑑賞をやめて目を逸らしてしまいたくなるような気分です。べつに特別グロテスクな場面があるわけでもありません。でもこの映画にはそのような力がありました。しかし同時に、この不快と言えるほどの気持ちをどこへ連れて行ってくれるのか、という思いをこちらに抱かせる力もまた感じます。最後まで鑑賞せざるをえないのです。

「悪人」は、悪意に満ちた映画です。これが居心地の悪さの元凶です。それはもちろん、映画の制作側に悪意が満ちているという意味ではなくて、あらゆる細かな悪意が散りばめられて描写されているということです。序盤、殺されることになる佳乃(満島ひかり)が、事件の直前に友人たちと食事をする場面でも、彼女の高慢さや友人の嫉妬といった日常的な悪意がふわふわと浮かんでいます。彼女が祐一(妻夫木聡)との約束をあっさり反故にする場面でも、その目の前で乗り込んだ圭吾(岡田将生)の車中での会話においても。佳乃の浅はかに計算高い会話と、わざわざ山道で佳乃を放り出す圭吾の悪意。時間軸を追っていくと、初めて人間らしい温かさを見せたのは誰あろう、直後に殺人者となる祐一です。「馬鹿にされた」と怒りに任せて追ってきた彼は、しかし、暗い山道に置き去りにされた佳乃に手を差しのべます。

ところが、佳乃の耐えきれないほどの惨めさは、つい先ほど足蹴にした祐一に優しくされることで増幅してしまいます。あろうことか、祐一を拒否するのみならず、陥れようとするような悪意に満ちた返答をしてしまうのです。まるで悪意のたらい回しです。そして人々の間をたらい回されるたびに悪意は増幅し、刺々しくなっていきます。「破裂に向けて膨らみ続ける風船をたらい回しにしながらクイズに答える」みたいな場面がよくバラエティ番組などでありますが、まさにあのような感じです。

最後に悪意を受け取ってしまった祐一のところで、ついに膨らみきった悪意は殺意へと変わってしまいます。そして爆発。殺人事件が起こってしまいます。そこには確かに悪意が、殺意がありました。ではそれをもって祐一を「悪人」と断罪できるのでしょうか。


悪意に対して描かれたものとは?

事件に至る場面のみならず、映画のあらゆる場面で人々の悪意が現れます。佳乃の通夜で無責任な噂話に花を咲かせる参列者。薄ら笑いを浮かべながら「犯人の祖母」を追い詰めるマスメディア。彼女を脅すようにして詐欺の漢方薬を買わせる販売員(松尾スズキ)。事件に対してまるで責任を感じず、武勇伝のように取り巻きに語って聞かせる圭吾。一度どこかで悪意が爆発しても、世の中には無尽蔵にさらなる悪意が生まれ、人々の中を渡り歩いていくのです。

だけど、それを押し留めようとする人もいます。渡された悪意をさらに誰かに押し付けるのではなく、歯を食いしばってその爆弾を胸に抱え込み、爆発させまいと懸命になる人がいます。それが祐一の祖母・房枝(樹木希林)であり、佳乃の父・佳男(柄本明)です。房枝は騙し取られた金(それは孫である祐一のための金です)を返してくれと詐欺師の事務所に乗り込みます。佳男は「娘に謝れ」と圭吾に迫り凶器を振りかざしますが、振り下ろすことを踏み止まります。地獄のような苦しみの中でもなお、善なるものを、正しさを見失わない希望の人としてこの二人は描かれています。

そしてもう一人、もっとも重要な善なる人、あるいは愛の人が登場します。それが祐一とともに逃げる光代(深津絵里)です。マスコミ的に「客観的」な事実を書けば、彼女は「出会い系で出会った男とすぐに肉体関係を結び、彼が殺人犯と知っても通報もせず、出頭しようとする彼を押し留めて一緒に逃げようと焚きつけた女」です。こう書けばまったく悪い女のようですが、そのような印象はまったく感じられません。


なぜ祐一は光代の首を締めながらキスをしたのか?

祐一と光代には、共通点がありました。都会的な華やかさも全くない単調な毎日の中、未来への希望も持てず、ゆるやかな絶望に締め付けられていくような毎日。半径が極端に狭く、色彩が極端に乏しい毎日。二人が感じるのは、まさに現代的な地方の若者の閉塞感です。二人にとっての「出会い系サイト」は、ちょっと危険な暇つぶしの遊びではなく、極めて切実な突破口でした。さっさと都会に飛び出して、暇つぶしのように出会い系サイトを使っていた佳乃とは対照的です。

ようやく見つけた「出会い」であり、幸せのための道筋だったはずの二人の関係が、そもそもの最初から袋小路の逃避行だったという点が最大の悲劇でした。「何年でも待つ」と祐一の出頭を見送ろうとした光代は、思い直して彼を引き止めます。

このあたりからラストまでの光代の行動原理は、基本的に個人的なものです。社会的な責任だとか、心配する妹だとか、そのあたりをすべてうっちゃって、自分と祐一だけを世界の中心において動いています。それでも独りよがりな感じはしません。この世の中で間違いなく「悪人」の烙印を押されてしまった祐一に、その愛をもって罪を自覚させ、赦し、包み込む様はまるで聖母です。彼女が赦したのはただ祐一のみではありません。祐一の罪につながるまでに人々がたらい回しにして育ててきた、それらの悪意全てだったのではないでしょうか。彼女自身にそのような自覚はないにしても。

最後の最後に祐一が「俺はあんたが思うとるような男じゃなか」と光代の首を締めた理由を解釈するのは、とても難しいことです。でも、たとえば「何年でも待つ」という彼女を、聖母の役割から解き放つための行動だったと考えられるのではないでしょうか。「悪人」である自分のことは忘れて幸せになってほしい、というような。そして、突入してくる警察に、彼女はあくまで悪人の被害者であると見せるための。それまでは基本的に、光代が祐一に愛を注ぐ場面ばかりが目立っていましたが、ここでは祐一の愛があのような形で表されたのでしょう。

劇中でもっとも重要なセリフを、終盤になって佳男がつぶやきます。「あんた、大切な人はおるね? その人の幸せな様子を思うだけで自分までうれしくなってくるような人は。今の世の中、大切な人がおらん人間が多すぎる」。


誰が本当の「悪人」なのか?

誰が本当の「悪人」なのか、という問いかけは、映画の予告編でもなされています。でもこれに対する答えが明確に提示されるわけではありません。そういう意味で、たとえば「アウトレイジ ビヨンド(2012)」の「一番悪い奴は誰だ?」あたりとはまったく異なるものです。

この映画には、明確な悪人が登場しません。というよりも、「こいつは悪い奴だ」といえる人間は多く登場する一方で、「本当にこいつこそが悪人と言っていいのか」という留保が常に同時に示されています。受け止め方は様々ですが、「やっぱり悪人は祐一だ」「いや圭吾だ」「いや、そもそも佳乃が悪かったのだ」などと「悪」を個人に帰着させて考えてしまうと、どうもこの映画をうまく飲み込めていないような気分になってしまいます。

他の何でもない、「悪意」としかいえない悪意は随所で示されます。繰り返しになりますが、それがたらい回しにされ、どこかで爆発します。爆発させてしまった人が「悪人」になってしまうのです。だから、「誰が悪人か」ということは物事の本質ではないのかもしれません。それでも社会では、誰かが罪を引き受けなければなりません。現に殺したのが祐一なのですから、彼が「悪人」として罰を受けなければなりません。終盤で光代がつぶやく「あの人は悪人なんですよね、人を殺したとですもんね」という言葉とそのつぶやき方に、これが集約されているようにも思えます。


出演者たちの素晴らしさとは?

妻夫木聡、深津絵里の素晴らしさは述べるまでもありません。樹木希林・柄本明も、素晴らしいと言うのがおこがましいほど、さすがの一言です。忘れてはならないのは満島ひかり。「こんな女は死んで当然なんじゃないか」と思わせるほどの、物語にエンジンをかける名演です。それが、柄本明の抑えに抑えた演技から溢れ出る娘への愛情と響き合って(彼を見ると「お前の娘は死んで当然の女だ」などとはとても言えません)、観客をこれでもかとぐらつかせます。

印象的なのは、ぶっきらぼうに房枝をはげますバスの運転手(モロ師岡)。悪意だらけみたいに描かれてきた世間の中で、あんなに力強い優しさを見せる彼の印象は、走り去るバスに深々と頭を下げる房枝の姿と相まって、ほんのワンシーンにもかかわらず非常に大きなものでした。


蛇足(その他の下世話な話)

まずは食事シーン。序盤で佳乃が友人と食べていたのが鉄鍋餃子。しかも、これは非常に大きな意味を持つ食事シーンです。これがなければ殺人は起こらなかったかもしれなかったのです。そのうえ、「満島ひかりがニンニク臭い」というのは非常に観客に居心地を悪くさせます。美女を出しておいて臭いというのは演出として最悪です(褒めてます)。それにしても博多の鉄鍋餃子は最高ですよね。問答無用で今作のベスト食事シーンは「博多の鉄鍋餃子」。


次にベストベッドシーン。これはもちろん、一緒に逃げることを決めた直後の祐一・光代(妻夫木聡と深津絵里)のベッドシーンでしょう。絶望的なほどの事情を分かち合った男女の、急き立てられるような激しいセックス。ヒリヒリします。人によるだろうけど、こういうの好きな人はものすごく興奮するのではないでしょうか。 

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