交差する相棒同士のまなざし - フレンチ・ラン(2016)レビューと解説(ネタバレあり)




未鑑賞の方は、ネタバレなしの作品紹介記事をご覧ください。

「バディ・ムービー」の系譜について

「バディ・ムービー」の正確な定義があるのかどうかは知りませんが(たぶんないでしょう)、大雑把に言うと「背景を異にする二人の人物がバディ同士(=「相棒」関係)となり、(互いに反目・衝突しながらも)心を通わせていき、一致協力して目的に向かっていく」という感じでしょうか。こういった構成というのはまあ、王道中の王道です。大好物という方も多いでしょう。

古くは名作『明日に向って撃て!』(1969)がありますし、『スケアクロウ』(1973)『48時間』(1982)『ミッドナイト・ラン』(1988)『メン・イン・ブラック』(1997)……と枚挙に暇がありません。地味に面白い作品として近年では『ケープタウン』(2013)がありました。また、兄弟ながら『レインマン』(1988)にはバディ・ムービー的な要素があります。女性同士だと『テルマ&ルイーズ』(1991)は名作でしたね。

その性格上「事件を追う」とか「謎を追う」、あるいは犯罪者として「逃げる」ということが多くなりますが、べつにそうでなくても良いのです。大ヒットしたフランス映画『最強のふたり』(2011)もバディ・ムービー的です。音楽がテーマの傑作『ブルース・ブラザース』(1980)もそうです。まあ、これは一応犯罪者として逃げてはいますが。

要するに、定義は曖昧ながら「なんかいいな、この二人の関係」と思わせる映画ということですね。それも、恋人関係ではなく、単純な友人関係ともちょっと違う。個々のキャラクターはもちろんのこと、その「関係性」に思い入れを持てるような関係。ですから必然的に、その二人は多くの場合まったく異なる性格であり、正反対ということが多くなります。諸々の事情もあるのでしょうが、白人と黒人という組み合わせも多いですね。前置きが長くなりましたが、『フレンチ・ラン』もそうです。


誰と誰のどういう駆け引きだったか?

ブライアー(イドリス・エルバ)とマイケル(リチャード・マッデン)の関係性に触れる前に、この物語で何が起こったのかをざっと確認しておきましょう。そこまで複雑な話ではないはずですが、「テンポよすぎ」というほどのスピード感で物事が進んでいたので、ちょっとボーッとしていると置いていかれかねない感じはありました。以下にまとめてみます。

左翼過激派を装ったテロリスト集団が、ゾーエ(シャルロット・ルボン)を使い極右政党の建物を爆破しようとする。その爆弾入り荷物をスリのマイケルが盗んでしまい、広場で爆発させてしまう。CIAのブライアーはマイケルを捕えるが彼はテロリストではないと確信する。そこで二人は犯人を追うことに。パリ警察もガミュー(ジョゼ・ガルシア)を責任者として犯人を追う。ところがその配下、警察の特捜隊隊長(ティエリ・ゴダール)には裏の顔があり、件のテロリストの一員となっている、というかそのリーダー格である。そしてあろうことか、その上に立つテロリストの大ボスはガミューその人である(ここが、けっこうバレバレながら最大のサプライズ)。

テロリスト集団の狙いは左派のふりをして右派を攻撃し(またはその逆)、市民を煽り立てて暴徒化させ操ることである。モスクに爆弾が隠されていたとでっち上げてイスラム教徒に濡れ衣を着せたり(右派の怒りを煽る)、警官がアラブ人に暴行する映像をでっち上げてネットに流したり(左派の怒りを煽る)、巧妙に人心を刺激して操り、対立させる。

テロリスト集団の懸念は、行方をくらましたゾーエと、偶然関わってきたマイケルの存在。この二人を始末しようと追跡すると、どうもアメリカのCIAが事件を調べているらしいことがわかる。これはまずいと探りを入れる。一方ブライアーとマイケルは左派運動家仲間にかくまわれていたゾーエを確保し、調べるうちにテロリスト集団と警察の繋がりに気づく。

CIAの同僚のカレン(ケリー・ライリー)が殺され、ブライアーは黒幕がガミューであると睨む。三人は殺されかけるが、すんでのところで真相に気づき、難を逃れる(車内での乱闘場面)。一方、テロリスト集団はいよいよ最終目標として、暴徒を操り国立銀行を襲撃させる。彼らの目的は政治的なものではなく、襲撃のドサクサで大金(デジタル通貨)を盗むことだった。ブライアーらはなんとかこれを阻止するが、その中でガミューは口封じに隊長を始末する。しかしブライアーらは警察(のまともな人々)と協働し、ガミューの逮捕にこぎつける。ざっと振り返ると、こういうお話でした。


いかにして人を操るか?

「どうすれば人を意のままに操れるのか?」裏を返せば「人が知らず知らずに操られることの裏には何があるのか?」ということがこの映画の大きなテーマであり、映画に面白みを加えている要素です。マイケルのスリのテクニックの核となっているのは、まさにこれです。マジシャン並みの手先の器用さももちろん大事なのでしょうが、それ以上に「人をよく観察し、操られていると悟らせず自然に操ること」が大切なわけです。

ゾーエを確保するため、彼女をかくまっていると目される金髪モジャ男の個人情報を抜き取る場面がありました。ここはまさにマイケルの面目躍如です。スリというその行為自体は、彼にとっては朝飯前なのです。大切なのは、「いかにしてスリができる状況を作り出すか」ということ。そのためにマイケルがしたのはたった2つ。「隣に座っていた男の携帯を別の男のポケットに入れる」「ワインの位置を少しだけずらす」。これで2つのトラブルを誘発し、いとも簡単に財布を抜き取ることに成功します。

マイケルの観察力・発想力・行動力は驚くべきものです。店に入った瞬間、彼はまず「ターゲットをカウンターから外に出すこと」を考えます。そのためには、自分とは無関係なところでトラブルが起きる必要があります。そこで、隣の男が無用心に携帯を放り出していることを発見するのと同時に、その男がいかにも喧嘩っ早そうなことをも見抜き、利用します。でも、出てきたターゲットがトラブルの渦中に入っていく前に、自分の近くで立ち止まってくれなければいけません。そこで、もう一つの「ワインがこぼれて他の客にかかってしまう」というトラブルを起こすわけです。というか、ターゲットに「起こさせる」。もちろん、これに利用するためのカウンターの構造も、入店早々目ざとく認識しています。

このように、どうも情けない感じのキャラクターとは裏腹に、マイケルはスリとしてきわめて優秀です。彼はきっかけだけを与え、人々は勝手に(しかし思うままに)動き、彼は大きな結果をかすめ取るのです。これがキーワードとして出てくる ”distraction” つまり「そらすこと」、「誘導」です。そして、これを非常に大きな規模でやろうとしたのがガミューらテロリスト集団というわけです。そのために何をしたかといえば、それは前項で振り返った通りです。


ブライアーとマイケルの共通点

さて、バディ・ムービーとしての『フレンチ・ラン』について。この映画での二人の関係性の特徴は、ぜんぜんウェットじゃないということです。「感動を呼ぶような出来事があって、反目し合っていた二人に変化が起こる」みたいなことはありません。痛快さはあるのですが、気の利いた軽妙な会話が繰り返されるということもありません。この映画での二人の関係性においては、直接的にも間接的にも「まなざし」が重要になってくるのです。

前項に述べたように、マイケルは人を非常によく観察しています。そしてこれとよく似た能力を、ブライアーも持っています。彼は犯罪者を見分ける異様な嗅覚を持っていますが、これが多分に感覚的なもの(理屈で説明できないもの)であろうとも、やはり根ざしているところは「観察」です。つまり、マイケルの人間観察が「相手がスれる対象か、スるにはどうすればいいか」を見るのに対して、ブライアーのそれは「相手が犯罪者かどうか」であるというわけです。

これらは当初、重なることがありません。それも当然で、「犯罪をするためのまなざし」と「犯罪を見つけるためのまなざし」は対立こそすれ、一致することなどないのです。綺麗な表裏です。二人ともに鋭いまなざしを持ちながら、これらはすれ違います。それが現れていたのが、マイケルがブライアーを相手にスリの腕前を披露してみせる場面でした。

ここでマイケルは、神業のような見事な腕前を見せ、「誘導」の重要性を示します。ブライアーを観察し、自分の動きを悟らせないように操ったのです。ナイフを盗みロープを切って逃走するという大きなおまけつきです。ただし、ここではマイケルが一方的にブライアーをやりこめたわけではありません。ブライアーもブライアーで、しっかりとした結果を得ています。それは、マイケルをよく観察し、「スリという犯罪者ではあれどテロリストではない」と判断したことです。もちろん、それを確信したのは直後のテロリストの急襲によってだったのでしょうが。

このように、序盤の二人はお互いを観察し合いながらもそれはバラバラの目的のためのもので、まなざしが交わることはありません。しかし行動を共にするうち、まなざしが交差するように、つまり目と目を合わせたやりとりが起こるようになっていきます。


まなざしが交差し、二人はバディとなる

医者になりたいというマイケルの出まかせに対して、ブライアーは「嘘をつくとき左を見る」という癖からそれを看破しますが、それは単に嘘を指摘したというのではありません。彼は、無為な暮らしに対するマイケルの空虚な思いをも見抜いているのです。だからこそ直後に出せたのが、マイケルに仕事をさせるための、自分の出自についての出まかせです。ここでブライアーはめちゃくちゃ大げさに顔ごと「左を見ている」というのが面白いところです。

一方、マイケルがブライアーを人として観察した場面はわかりやすく描かれています。ゾーエを確保するために向かったアパート。出てきたムスリム住民の母娘らしき二人に、ブライアーは笑顔で挨拶をします。そしてマイケルの「あんた笑うと別人だね」のツッコミ。直後のエレベーターの中での気まずい時間は、なんともおかしみあふれる場面です。二人の向かい合う様子がわざわざ長めに映されますが、まさにこのとき、二人は「バディ」となったのではないでしょうか。

まなざしで響きあえる「バディ」だからこそ、という場面があります。終盤、ゾーエとともに敵の車に乗せられ、車内で乱闘となる場面です。車に乗り込んでから「こいつらは敵だ」ということに気づいた彼らは、ほんの一瞬の視線の会話でコミュニケーションを完了させ、危機を乗り切るのです。この場面のまなざしの描写(ゾーエや敵も含め)はゾクゾクするポイントでした。


バスティーユ・デイとは?

作品紹介の記事でも述べましたが、この映画の原題である「バスティーユ・デイ」すなわち毎年7月14日の建国記念日は、フランスとその国民にとって非常に重要な日です。フランスという国が、身分制に基づく前近代の体制(アンシャン・レジーム)から脱却し、今日に至るまでの共和政を形作るきっかけとなったのはフランス革命。その発端となったのが、1789年の7月14日に起きたバスティーユ監獄襲撃なのです。

ただし、これは「正義の市民が既得権を貪る特権階級を攻撃した」というような単純なものではありません。集団的な怒りに押されて暴徒化した市民たちは、バスティーユ監獄を襲撃して制圧したものの、そこには人々が想定していたような抑圧された政治犯たちはいませんでした。しかし彼らの怒りはどこまでも収まらず、監獄の司令官ら数名を虐殺し、その首を掲げて街を練り歩いたのです。どのような大義名分があろうと、現代の価値観に照らせば、これは言語道断の蛮行です。

この映画で描かれた暴徒たちの銀行突入にも、似た部分があります。つまり、突入したはいいものの、彼らにはそこでの具体的な目的は何もなかったのです。彼らはただ虚しくシュプレヒコールをあげるだけでした。

つまりは、民主主義の尊さは大前提としても、市民の声というのはいつも正しいのか、という問題提起です。市民の声だからと無条件で肯定していると、それが暴走して酷い結果を招くこともあります。互いに対立する市民の声同士がぶつかり合い、それが正当な議論として成立するならよいのですが、エスカレートして暴力を伴う大混乱を招くこともあります。さらには、それを裏で操り利益を得ようという者すらいるかもしれません。

このように、バスティーユ監獄の襲撃という民主主義の発端に現代社会を重ね合わせることで、あらためて民主主義、というか「民衆の意思」の危うさについて警鐘を鳴らそうという意図も、この映画には感じられました。それはまったく荒唐無稽な話ではありません。パリという街は近年、イスラム過激派によるテロで大きく傷つけられました。移民に対する憎悪や漠然とした恐怖の感情から、無辜の移民やその子孫が集団的ヒステリックにより傷つけられる出来事(ヘイト・クライム)も多く起こっています。また、善意の市民が移民によって傷つけられる事態も実際に起こっています。フランスのみならず、ドイツなどの欧州各国でも同様です。結果「移民排斥」が先鋭化して形となったのが、アメリカにおけるトランプ大統領の誕生でした。

このように、深読みしようとすればけっこう深いところまで行けるが、しかし単純にハラハラドキドキのアクションを楽しもうとすればそれも十分イケる、というあたりが『フレンチ・ラン』の良い部分でした。


けっこう作りが荒いところもあった

ただし、ツッコミどころはけっこうありましたね。あまりにもスピーディーなため、ツッコんでいる暇もなく話が進んでしまってさほど気にならなくなってしまうのですが、思い返してみればいろいろあります。

たとえば、隊長がマイケルへの射殺命令を出すところ。いくら権限ある立場とはいえ、射殺などという重大な命令をそんなふうに出せるものかという疑問があります。いや、狙撃手自体は息のかかった者であっても、それが組織として可能なのかということですね。まあ、ガミューという後ろ盾があったからだということかもしれませんが。

あとは、二人が奪った趣味の悪い色のメルセデスについて。盗難届が出ていたことから隊長たちに嗅ぎつけられ追われることになりますが、あの車にはやばい薬が隠されてありましたよね。そんな車が盗まれて、持ち主はすぐに迷わず盗難届を出すものでしょうか。どうも腑に落ちません。

ほかにも、銀行のシステムにあのように簡単に侵入できるのかという問題もあります。この種のアクションものでは、とにかくコンピュータ関連の物事はなにかと万能に描かれることが多いのですが、「デジタル通貨」などという先端的にリアルな概念を出しておきながら、一方でずいぶんリアリティの裏付けが足りないのではないか、など。

でもいちばん不満だったのは、「コトの真相に気づく人物は、明確にしっかりマイケルであって欲しかった」ということです。「そうか、この事件の構造は俺がスリでやっていることと同じだ」と閃いて欲しかったのです。確かに「誘導」の重要さはマイケルからブライアーに伝えられてはいるのですが、それでももう少しマイケルに活躍の場が欲しかった。クライマックスにおけるスリのテクニックも含めて。


蛇足(その他の下世話な話)

今回に関しては、ここで述べられることはほぼゼロですね。冒頭が凄まじく刺激的(でバカ)な場面でしたからけっこう過激な映画なのかと思いきや、その点での過激さはその後なく。また、美味しそうな食事のような場面もありませんでしたね。そんなもん描いてる暇はねえ! という感じのスピード感ある映画でした。

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