AIの時代にこそこれを観よ- 聖の青春(2016)レビューと解説(ネタバレあり)




未鑑賞の方は、ネタバレなしの作品紹介記事をご覧ください。

実在の人物を演じることの難しさとは?

「聖の青春」は実話を基にした(ノンフィクション小説を原作とした)映画です。実際に起こった事件などをモデルにした物語は多く存在しますが、主要人物が存命かつ実名で登場するケースとなるとそう多くはありません。このような映画には独特の難しさがあります。俳優たちは役作りにおいて、通常のフィクションとは異なるアプローチを必要とすることでしょう。

主人公の村山聖(松山ケンイチ)はすでに他界していますが、ライバルの羽生善治(東出昌大)は今も第一線で大活躍していますし、師匠の森信雄(リリー・フランキー)も活発に活動しています。そのまま実名で登場するのはこれらの人物と、せいぜい聖の両親といったところです。しかし他の人物も思いっきり実在の人物がモデルになっています。友人のプロ棋士・荒崎学(柄本時生)のモデルは先崎学ですし、将棋雑誌編集長の橋口(筒井道隆)のモデルは大崎善生、すなわち原作者その人です。

「聖の青春」は多くの方面から好評を博していますが、その中には「本人そっくりだ」というものが多く見られます。実際松山は20キロもの増量によって外見を在りし日の聖に近づけています。顔立ちは似ても似つかぬものですが、その仕草や雰囲気によって彼は村山聖という人物をまさに憑依させています。そして東出もまた、聖以上に多くの人に知られているであろう羽生善治の独特の仕草をよく研究し、再現しています。羽生本人の協力により、当時彼が使用していた眼鏡の実物を使用できたことも、これに大きく貢献しています。ふたりをよく知る将棋関係者からも「そっくりだ」という声が多く聞こえてくるあたり、本当にそっくりなのでしょう。

ただし、「(外見が)そっくりなだけではいけない」というのが俳優にとって難しいところです。それではただのモノマネです。本人たちの姿形、仕草などを真似ることで彼らと響き合い、そのうえで表現をしなければならないのです。しかも、できるだけ深いところで響き合わねばなりません。そうでなければ、薄っぺらな表現になってしまいます。

そうした意味で、最後の対局の場面は素晴らしいものでした。松山と東出は、この1998年に行われたNHK杯決勝・羽生善治対村山聖の全71手をすべて記憶し、実際の対局のように撮影に臨んだのだといいます。その間、カメラは回されっ放しだったようです。実際にスクリーンに映し出されるのはそのうちの数手に過ぎません。しかし一手ごとに込められた感情があり、棋士と俳優が響き合いながら、ふたりは対局を進めていきました。だからこそ、投了の場面ではあのように対局と感情の極点における交錯のような場面が生まれたのでしょう。「あそこだけを撮る」という方法では、これは不可能だったに違いありません。

実際、ここの場面は「似ていない」のです。現在も、実際に行われたこの対局の様子をウェブ上の動画で確認することができますが、二人の様子はあのように感極まったものではありません。この場面は決して「史実の再現」ではありません。松山・東出の両俳優が、聖と羽生の深層に降りていき、そこで起こっていたことを解釈して表に引き上げてきた、という場面です。ドキュメンタリーではなく、映画における物語として表現されることの意義がここにありました。ドキュメンタリー的な、2時間半に渡る長回しの手法を用いることで逆にそれを引き出した森義隆監督の手腕も見事です。


実際の出来事を描くうえで工夫されていたこと

この映画には実在の人物が描かれており、それはすなわち実際の出来事が描かれたということを意味しています。しかし、「何もかもそのまま」ではいけません。物語として成り立たせるための脚色も必要ですし、逆に2時間程度の時間におさめるための整理整頓やスリム化も必要です。しかも、それらは全て松山・東出が実在の人物と響きあうことの助けとなるように収束していかなければなりません。

その点で注目すべきは、荒崎(柄本時生)や橋口(筒井道隆)らの存在です。これらの人物は実際の人物をモデルとしながらあくまで架空の人物として登場しており、事実とフィクションの間を橋渡しする存在として、あるいは物語を映画的に整理する存在として有効に働いています。特に荒崎の登場は、それまでに登場した師匠の森ら「聖のことをよくわかっている」人々ではなく、関西からやってきた「怪童」に出会って衝突したり仰天したりする存在として重要でした。これにより聖の内面や成長がよく描かれたのです。

また、実際のエピソードや小道具が多く使用された点にも注目すべきでしょう。たとえば、高熱に苦しみ床に伏す聖が蛇口から落ちる水滴の音を聴く場面があります。これは事実に即していて、村山聖は実際にこのようにして「自分は生きているのだ」という実感を得ていたのだといいます。また、村山が少女漫画の熱心な愛読者だったという点なども事実に即しています。『イタズラなkiss』というあたりにおかしみがありますが、一方で「健康な普通の若者のように恋がしたい」と願っていた聖のことを思うと、物悲しくもあるエピソードです。

一方、史実と異なる部分もあります。劇中、聖が羽生と酒を酌み交わす場面で「二つの夢」を語る場面があります。これは、実際は羽生に対してではなく、プライベートでも親しかった先崎学(荒崎のモデル)に対して語られた話のようです。このあたりは映画的な整理整頓。しかし、ただ一度盤外で果たされる聖と羽生の対話らしい対話において、大きな役割を果たしていました。

(なお、先崎学の村山聖追悼文を将棋ペンクラブのブログにおいて読むことができます。胸に迫る名文です)

また、様々な小道具として実物も使用されました。東出の眼鏡が羽生本人の提供によるものであることは前述の通りですが、松山が着用していたネクタイも村山聖本人のものであったようです。また、聖が幼少時から使い古してすっかり角が丸くなってしまった将棋の駒も実物が登場しました。観客からは、それらが小道具として作られたものなのか、それとも本物なのかということはわかりません。しかし俳優たちにとっては恐らく、史実と演技の間でバランスを取るためのお守りのような存在として重要だったのではないでしょうか。


現代へのメッセージはどのように込められていたか?

「聖の青春」は1990年代の物語です。当時、すでに将棋のファミコンゲーム等は発売されていましたが、コンピュータの棋力は現在とは比べ物にならないほど低いものでした。実際、劇中でも聖はアンケートに答える形で「人間がコンピュータに負ける時代は来ない」としています。

しかし、昨今多く報道される通り、現代のAI(人工知能)の発展は目覚しいものです。2010年代に入って以降、人間の棋士とコンピュータが戦う「将棋電王戦」は高い人気と注目を集めています。そして過去の戦績を見るに、人間側は押されていると言わざるをえない状況です。また、コンピュータを用いたとされた2016年の「カンニング疑惑」は将棋界を大きく揺るがせる事件でした(これは「冤罪」だったとはっきり結論づけられています)。

この状況に対して、プロ棋士たちの反応は様々です。そんな中で、羽生善治はいち早くAIに注目し、並々ならぬ興味を示してきました。AIをテーマにしたNHKスペシャルでは自ら最先端の現場を取材し、ナビゲーターを務めました。彼は危機感を持って「今、棋士の存在価値が問われている」と述べます。

もし村山聖が健在だったならば、この現状に対してどのような態度を取っただろう、ということに思いを馳せずにはいられません。人間のライバルたちに対するのと同様、コンピュータにも対抗心をむき出しにしたでしょうか。でもなんとなく、AI相手では聖は力を出し切れずにあっさりと負けてしまうような気もします。強大な相手の「魂」とぶつかり合うことで初めて実力を発揮させるタイプだったのでは、などと思えてしまいます。

何かのテレビ番組で、コメンテーターが「AIの発展によって棋士という職業はなくなってしまうのだから、親が棋士を目指す子どもの後押しをするのはその子を不幸にすること」というような利いた風な内容を述べていました。でもその人物は、この映画を観た後でも同じことを言うのでしょうか。非常に興味深いところです。バイクや車より遅いウサイン・ボルトはなぜスーパースターなのか? という話です。


蛇足(その他の下世話な話)

ベスト食事シーン。これは聖と羽生が酒を酌み交わすシーンで間違いないでしょう。将棋以外の話題ではちっとも噛み合うところのないふたり。それでも、将棋について、というか勝負については一点、ぴったりと一致するところがあります。「負けることは死ぬほど悔しい」。海の底に潜っていくというモチーフと合わせて、あのビールはずいぶん体が冷えるような印象を受けました。

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